Research
英国上場企業9821件の年次報告書をLLMで分析——AIリスク開示の実態と「形式的開示」の蔓延
2026/10/07
年次報告書はAIリスクを本当に開示しているのか
英国上場企業のAIリスク開示を大規模に分析した論文「The AI Risk Observatory」が arXiv に投稿された。独立研究者のBart Jaworski氏が著者で、ロンドン証券取引所(メインマーケット・AIM)とAquisに上場する英国法人1362社から収集した9821件の年次報告書(2020〜2025年、2026年分は一部)を対象に、LLMを用いた二段階分類パイプラインを適用している。
急増するAI言及、しかし中身は乏しい
論文が報告する最も顕著な傾向は、AIに関する言及そのものの急増だ。2020年にAIリスクを言及していた報告書の割合はわずか2.8%だったが、2025年には41.2%に達した。AI導入に関する開示も同期間に13.8%から45.2%へと大幅に増加している。
しかし著者らが「実質的(substantive)」と分類できる開示は別の話だ。2025年においてAIをリスクとして言及している報告書は41.2%に上るものの、実質的なAIリスク開示を含むと判断された報告書はわずか4.3% にとどまると報告されている。実質的とは「具体的な管理策・名称のついたシステム・数値目標を伴う記述」を指し、たとえば「EU AI法への適合に向けて3件の高リスクAIシステムに500万ポンドを投じ、2025年Q3までに対応を完了する」といったものだ。一方で「AIは急速に進化する技術であり、当社事業に影響を与える可能性がある」といった記述はどの企業の報告書にもそのまま転用できるボイラープレートとして低評価に分類されている。
分析手法:LLMによる二段階分類
研究では再現可能な二段階パイプラインが採用されている。まずAI関連キーワード(「artificial intelligence」「large language models」「generative AI」「computer vision」など)を含む段落を抽出し、24,189件のパッセージを得た。次に段階1でそれぞれのパッセージに「導入(adoption)」「リスク(risk)」「ベンダー言及(vendor)」「実害(harm)」「一般・曖昧(general/ambiguous)」「非該当(none)」のラベルを付与。段階2ではリスク言及を「戦略・競争リスク」「サイバーセキュリティ」「業務・技術リスク」「規制・コンプライアンス」「評判・倫理リスク」「サードパーティ・サプライチェーン」「情報の完全性」「労働力への影響」「環境負荷」「国家安全保障」の10カテゴリに分類し、AIとリスクの因果帰属の強さも1〜3段階で評価している。
検証は474件の人間アノテーション済みパッセージとの比較で行われており、段階1ラベルの再現率は0.91〜0.97と高い一方、精度はラベルによって異なると報告されている。Jaccard類似度の平均は段階1で0.73、10カテゴリリスク分類では0.33だった。
セクター・市場区分による格差
AIリスク開示の水準はセクターおよび市場区分によって大きく異なることも明らかにされた。メインマーケット上場企業と比べてAIM(新興企業向け市場)上場企業の開示率は著しく低く、エネルギーセクターとデータインフラセクターは他セクターに比べてAIリスク開示が遅れていると論文は指摘している。これは国家重要インフラ(CNI)として本来リスク管理の透明性が求められるセクターである点で、著者らは問題意識を示している。
ベンダー言及については、Microsoftが最も多く名指しされており 、主要プロバイダーごとへの依存が少数の大手企業に集中している様子が確認されたと報告されている。
「実害」開示はほぼ皆無
特に注目されるのが「harm(実害)」カテゴリの希少さだ。9821件の報告書全体を通じて実害として分類できたのはわずか7件のみ。ただし著者らは、段階1分類でharmタグが付いたパッセージについて全件手動レビューを実施しており、検証段階でharmラベルの偽陽性が40件存在したことを踏まえた上での数字だと説明している。
社会的レジリエンス研究への含意
著者らは、年次報告書が法的義務のある取締役会説明責任ドキュメントであり、監査済み財務諸表とともに提出される点で、サーベイやインシデントデータベースとは異なる信頼性を持つと位置づける。2006年会社法のもとで年次報告書は「主要なリスクと不確実性」を記述することが求められており、金融報告評議会(FRC)のガイダンスも企業固有の記述を求めている。
その一方で、大多数の開示が実質を伴わない「形式的記述」に留まっている現状は、社会がAI依存とリスクの集積状況を把握するうえで有効な情報を提供していないことを示唆しており、著者らは開示品質の向上が急務であると訴えている。
本研究の主たる貢献は方法論面にあり、LLMを用いた大規模年次報告書分析の再現可能なパイプラインを示した点にあると著者らは述べている。また英国上場企業全体を対象にCNIセクター別のAI開示状況を初めて大規模に俯瞰した実証的貢献もあると報告されている。