EUが定める汎用AI実践規範の技術ガイドライン

Table of Contents

〜AI法の実務対応に向けた包括的解説書〜


発行日: 2025年

版数: 第1.0版

対象読者: AIモデル開発事業者、AI事業責任者、コンプライアンス担当者、法務担当者


目次

  1. はじめに
  2. 実践規範の全体像
  3. 著作権遵守章の要点
  4. 安全性・セキュリティ章の要点
  5. 透明性章の要点
  6. 実務対応のためのステップ
  7. よくある質問
  8. まとめと今後の展望

1. はじめに

1.1 背景と目的

2024年に施行されたEU AI法(Artificial Intelligence Act)は、人工知能の開発と利用に関する世界初の包括的な法的枠組みです。特に汎用AIモデル(General-Purpose AI Models)については、その潜在的な影響の大きさを踏まえ、厳格な規制が設けられています。

実践規範(Code of Practice)は、汎用AIモデル提供事業者がAI法の義務を具体的にどのように履行すべきかを示す技術ガイドラインです。法的拘束力を持ち、事業者の実務対応において極めて重要な位置づけにあります。

1.2 対象となる汎用AIモデル

実践規範が適用される汎用AIモデルは以下の条件を満たすものです:

  • 汎用性: 幅広いタスクに対応可能
  • 基盤モデル: 他のAIシステムの基盤となる
  • 大規模: 一定の計算量を超える学習で構築
  • 市場投入: EUマーケットで利用可能

特に、10²⁵ FLOPs(フロップス)を超える計算量で学習されたモデルは「システミックリスクを伴う汎用AIモデル」として、より厳格な要件が課されます。

1.3 実践規範の法的位置づけ

実践規範は単なるガイドラインではありません:

  • 法的義務: AI法第53条および第55条の義務履行手段
  • コンプライアンス証明: 規範への準拠により法的義務の履行を示す
  • 監督当局による評価: AI事務局による評価の基準

2. 実践規範の全体像

2.1 実践規範の構成

実践規範は以下の3つの主要章で構成されています:

著作権遵守章(Copyright Chapter)

  • 著作権法の遵守
  • 権利者の権利留保への対応
  • 著作権侵害出力の防止

安全性・セキュリティ章(Safety and Security Chapter)

  • システミックリスクの評価と軽減
  • セキュリティ対策の実装
  • インシデント報告体制の確立

透明性章(Transparency Chapter)

  • モデル文書化の要件
  • 下流事業者への情報提供
  • 監督当局への報告

2.2 共通の基本原則

各章を貫く基本原則として以下が挙げられます:

適切なライフサイクル管理

  • モデル開発から市場投入、運用まで全段階での対応
  • 継続的なリスク評価と対策の更新
  • 関係者との協力体制の構築

比例原則

  • リスクの程度に応じた対策レベル
  • 中小企業への配慮
  • 効率的な実装方法の採用

最新技術の活用

  • 最先端(state-of-the-art)技術の導入
  • 技術革新への対応
  • ベストプラクティスの共有

3. 著作権遵守章の要点

3.1 著作権政策の策定(コミットメント1)

事業者は包括的な著作権政策を策定し、実装する必要があります。

政策の主要要素

  • EU著作権法の遵守体制
  • 権利留保の識別・遵守システム
  • 最先端技術の活用による実装

実装上の留意点

  • 組織内での責任分担の明確化
  • 政策概要の公開(推奨)
  • 継続的な更新体制の確立

3.2 ウェブクローリング時の法的アクセス(措置1.2)

ウェブクローリングによるデータ収集時には、法的にアクセス可能なコンテンツのみを対象とする必要があります。

技術的保護措置の尊重

  • 有効な技術的保護措置の回避禁止
  • ペイウォールやサブスクリプション制限の尊重
  • アクセス制限の適切な識別

違法サイトの除外

  • EU域内で違法認定されたサイトの除外
  • 動的リスト(Dynamic List)の活用
  • 定期的なリストの確認・更新

3.3 権利留保の識別・遵守(措置1.3)

権利者による権利留保を適切に識別し、遵守する必要があります。

機械読取可能プロトコル

  • robots.txt: IETF RFC 9309準拠
  • メタデータベース: アセット・位置ベース
  • 標準化プロトコル: 国際・欧州標準準拠

権利者との協力

  • プロトコル開発への参加(推奨)
  • 誠実な議論への参加
  • 関係者との協議体制

3.4 著作権侵害出力の軽減(措置1.4)

モデル出力による著作権侵害リスクを軽減する対策が必要です。

技術的保護措置

  • 訓練データの複製防止機能
  • 出力段階での侵害検知システム
  • 適切性・比例性を考慮した実装

利用規約での明記

  • 著作権侵害利用の禁止
  • オープンソースライセンスでの注意喚起
  • 明確な禁止事項の記載

3.5 連絡窓口と苦情処理(措置1.5)

権利者からの連絡や苦情に対応する体制を整備する必要があります。

連絡窓口の設置

  • 電子的通信手段での連絡先公開
  • 権利者・集合管理団体からのアクセス確保
  • 迅速・適切な対応体制

苦情処理メカニズム

  • 電子的手段での苦情受付
  • 十分な根拠を持つ苦情への対応
  • 合理的期間内での処理

4. 安全性・セキュリティ章の要点

4.1 安全性・セキュリティフレームワーク(コミットメント1)

システミックリスクを伴う汎用AIモデル事業者は、包括的なフレームワークを策定する必要があります。

フレームワークの構成要素

  1. 作成段階: モデル特性に応じたフレームワーク設計
  2. 実装段階: 継続的なリスク評価・軽減の実施
  3. 更新段階: フレームワークの適切性評価・改善

重要な記載事項

  • システミックリスクの受容基準
  • リスク階層の定義と使用方法
  • 安全・セキュリティ対策の概要
  • 外部関与者の意見反映プロセス

4.2 システミックリスクの識別(コミットメント2)

システミックリスクを体系的に識別するプロセスが必要です。

リスクの種類

  • 公衆衛生へのリスク: 健康被害の可能性
  • 安全性リスク: 事故・障害のリスク
  • 公共安全保障リスク: 社会基盤への脅威
  • 基本的権利へのリスク: 人権侵害の可能性
  • 社会全体へのリスク: 広範な社会的影響

特定されたシステミックリスク

  1. CBRN(化学・生物・放射線・核): 大量破壊兵器関連リスク
  2. 制御喪失: モデルの人間による制御不能状態
  3. サイバー攻撃: 大規模・高度なサイバー攻撃の可能化
  4. 有害操作: 人間行動・信念の戦略的歪曲

4.3 システミックリスクの分析(コミットメント3)

識別されたリスクについて詳細な分析を実施する必要があります。

分析要素

  1. モデル非依存情報の収集: 一般的なリスク情報
  2. モデル評価の実施: 最先端評価手法の適用
  3. リスクモデリング: 最先端リスクモデリング手法
  4. リスク推定: 確率と被害の深刻度の評価
  5. 市場後モニタリング: 継続的な情報収集

評価の質保証

  • 内的妥当性: 評価設定内での正確性
  • 外的妥当性: 実世界への適用可能性
  • 再現可能性: 結果の検証可能性

4.4 安全対策(コミットメント5)

適切な安全対策を実装し、システミックリスクを軽減する必要があります。

対策例

  • データフィルタリング: 訓練データの清浄化
  • 入出力監視: モデル動作の監視・制御
  • 行動変更: 安全性を重視した動作調整
  • 段階的アクセス: 段階的なモデル公開
  • 高保証技術: 定量的安全保証の提供

対策の要件

  • 適切性: リスクレベルに応じた対策
  • 頑健性: 敵対的圧力下での有効性維持
  • 継続性: モデルライフサイクル全体での実装

4.5 セキュリティ対策(コミットメント6)

不正アクセス、モデル窃取等に対するセキュリティ対策が必要です。

セキュリティ目標の設定

  • 外部脅威: 国家外アクター等への対策
  • 内部脅威: 内部関係者による脅威への対応
  • その他の予想される脅威: 幅広い脅威への対応

セキュリティ対策カテゴリ

  1. 一般セキュリティ対策: 基本的なサイバーセキュリティ
  2. モデルパラメータ保護: 未公開パラメータの保護
  3. インターフェース強化: アクセスインターフェースの堅牢化
  4. 内部脅威対策: 内部関係者による脅威への対応
  5. セキュリティ保証: 独立した第三者による検証

5. 透明性章の要点

5.1 モデル文書化の意義

透明性章は、AI法第53条第1項(a)(b)に基づく文書化義務の具体的履行方法を定めています。

文書化の目的

  • 下流事業者支援: モデル統合に必要な情報提供
  • 監督当局対応: 規制遵守状況の証明
  • リスク管理: 適切なリスク評価・管理の実現

文書化対象

  • すべての汎用AIモデル(フリー・オープンソース除外条件あり)
  • 特にシステミックリスクを伴うモデルには追加要件

5.2 モデル文書化フォームの活用

実践規範では、標準的なモデル文書化フォームが提供されています。

フォームの特徴

  • 包括性: AI法要件を網羅的にカバー
  • 明確性: 情報提供先の明示(下流事業者/監督当局)
  • 実用性: 実務で活用しやすい構成

情報の分類

  • 下流事業者向け: モデル統合に必要な技術情報
  • 監督当局向け: コンプライアンス評価に必要な詳細情報
  • 混合: 両者に関連する基本情報

5.3 情報提供の実践(措置1.2)

文書化された情報を適切に提供する仕組みが必要です。

公開情報

  • 連絡先情報: ウェブサイト等での明示
  • アクセス方法: 情報要求の手続き説明
  • 基本的な透明性情報: 一般公開可能な範囲

要求ベース提供

  • AI事務局への対応: 法的根拠に基づく情報提供
  • 下流事業者への対応: 統合に必要な範囲での情報提供
  • 適切な期間: 合理的な期間内(原則14日以内)での対応

5.4 情報の品質・完全性確保(措置1.3)

文書化情報の品質と完全性を確保する仕組みが重要です。

品質管理

  • 正確性: 事実に基づく正確な情報
  • 完全性: 必要な情報の漏れなき記載
  • 最新性: 継続的な情報更新

セキュリティ

  • 保護措置: 意図しない改変からの保護
  • アクセス制御: 適切な人員のみのアクセス
  • 証跡管理: 変更履歴の適切な管理

6. 実務対応のためのステップ

6.1 準備段階

Step 1: 適用範囲の確認

  1. 自社モデルの実践規範適用対象該当性確認
  2. システミックリスクモデル該当性の判定
  3. 適用される章・措置の特定

Step 2: 体制整備

  1. プロジェクトチームの組成
  2. 責任分担の明確化
  3. 外部専門家の活用検討

Step 3: 現状分析

  1. 既存対策の実践規範要件との比較
  2. ギャップ分析の実施
  3. 必要な追加対策の特定

6.2 実装段階

Step 4: 政策・フレームワーク策定

  1. 著作権政策の策定
  2. 安全性・セキュリティフレームワーク作成
  3. 透明性確保体制の構築

Step 5: 技術的対策の実装

  1. 著作権遵守技術の導入
  2. 安全・セキュリティ対策の実装
  3. モニタリングシステムの構築

Step 6: 文書化・記録

  1. モデル文書化フォームの完成
  2. 対策実装の記録・証跡作成
  3. 手順書・マニュアル整備

6.3 運用段階

Step 7: 継続的モニタリング

  1. リスク評価の定期実施
  2. 対策有効性の確認
  3. 改善点の特定・対応

Step 8: 外部対応

  1. 権利者・下流事業者との連絡体制
  2. 監督当局への対応準備
  3. インシデント発生時の対応

Step 9: 継続的改善

  1. 技術革新への対応
  2. 規制変更への適応
  3. ベストプラクティスの取り入れ

7. よくある質問

7.1 適用範囲に関する質問

Q1: フリー・オープンソースライセンスでのモデル提供は実践規範の対象外ですか?

A: 一定条件下では対象外となりますが、システミックリスクを伴うモデルは対象となります。AI法第53条第2項の条件を詳細に確認する必要があります。

Q2: 既存モデルのファインチューニングを行う場合の取り扱いは?

A: ファインチューニング部分についてのみ実践規範の義務が発生します。比例原則に基づき、修正部分に限定した対応が認められています。

7.2 技術的実装に関する質問

Q3: 「最先端技術」の具体的な基準はありますか?

A: 明確な基準は示されていませんが、当該分野における最新の研究成果・技術動向に基づく判断が求められます。継続的な技術動向の把握が重要です。

Q4: 権利留保の「適切な方法」とは具体的に何ですか?

A: robots.txtプロトコル、メタデータベースの権利留保表示、標準化団体が定めるプロトコル等が挙げられています。技術の発展に応じて追加される可能性があります。

7.3 運用・コンプライアンスに関する質問

Q5: システミックリスクの評価はどの程度の頻度で行うべきですか?

A: モデルのライフサイクル全体を通じて継続的に実施し、特に市場投入前と重要な変更時には必ず実施する必要があります。

Q6: 中小企業への配慮規定はどの程度適用されますか?

A: 企業規模・能力に応じた簡素化された遵守方法が認められており、一部の報告義務については免除される場合があります。ただし、基本的な安全性要件は維持されます。


8. まとめと今後の展望

8.1 実践規範の重要性

EU AI法の実践規範は、汎用AIモデル事業者にとって単なるガイドラインではなく、法的義務の具体的履行手段として位置づけられています。適切な対応により、以下の効果が期待できます:

リーガルコンプライアンスの確保

  • 法的義務の明確な履行
  • 監督当局による評価での優位性
  • 法的リスクの最小化

事業競争力の向上

  • ユーザーからの信頼獲得
  • 下流事業者との良好な関係構築
  • 持続可能な事業モデルの確立

技術革新の促進

  • 安全性・透明性を重視した技術開発
  • 業界全体のベストプラクティス向上
  • 国際標準への貢献

8.2 実装上の成功要因

経営層のコミットメント

実践規範への対応は技術的な取り組みにとどまらず、組織全体での取り組みが必要です。経営層の明確なコミットメントと十分なリソース配分が成功の鍵となります。

継続的な改善体制

AI技術と規制環境は急速に変化しています。一度の対応で終わることなく、継続的な改善を行う体制の構築が重要です。

ステークホルダーとの協力

権利者、下流事業者、監督当局等との適切な関係構築と協力体制が、効果的な実践規範対応を可能にします。

8.3 今後の展望

技術的発展への対応

  • 新しい評価手法・対策技術の開発
  • AI能力の発展に応じた要件の更新
  • 国際的な技術標準の策定

規制の進化

  • 実践規範の継続的改訂
  • 他地域での類似規制の導入
  • グローバル規制調和の進展

業界動向

  • 業界全体でのベストプラクティス共有
  • 協力的なリスク評価・対策の発展
  • 産学官連携の強化

8.4 最後に

EU AI法の実践規範は、AI技術の健全な発展と社会実装を促進するための重要な枠組みです。事業者各位におかれましては、本ホワイトペーパーを参考に、実践規範への適切な対応を進めていただければと思います。

また、実践規範は生きた文書として今後も発展していくことが予想されます。最新の動向に注意を払いながら、継続的な対応体制を整備することが重要です。


本ホワイトペーパーに関するお問い合わせや追加情報については、最新の公式文書をご確認いただき、必要に応じて専門家にご相談ください。